■第8回 「不思議なステージ体験」

照りつける黄色く眩しく照らすライトの光。一種異様な緊張感で張り詰めたコンサートホールの空気。そんな空間での演奏は、普段独りで演奏している時には絶対になし得ない事、予測もしなかった溢れ出るような言葉や迸りを引き出してしまう力を持っている。
私のステージでの演奏経験の中には今も強烈な記憶として頭に焼き付いている特別な思い出がある。それは言葉にするとまるでちんけな不思議体験の様になってしまうかも知れないとも思ったのでここに書くのは躊躇われたが、やはり思い切ってお話しする事にした。

あれは私がまだ10代の始めの頃にあるコンサートホールでのガラ・コンサートに出演した時の事だった。ある巨匠の演奏するF.リストの難曲を聴いて以来その曲の魅力に完全に夢中になってしまった私は、ほんの数ヶ月先のコンサートで大胆にもこれを演奏する事を決めてしまった。まだ12、3歳だった私がこの難曲中の難曲を僅か数ヶ月先のコンサートで弾く事に反対する声も有ったが、その時の私には不思議な程の理由の無い「確信」があったのだと思う。毎日私はこの難曲に心酔かつ没頭して行ったのだ。

数ヵ月後いよいよコンサート当日、朝目覚めた時からすこぶる気分が良い。今夜のガラ・コンサートの事を思うとわくわくと心が躍る。強烈な前向きなエネルギーが私の精神と身体を満たしているのをはっきりと感じている。今でも同じ様な感覚を感じる事があるが、この時ほどにパワーが漲り全ての感覚が極限までに研ぎ澄まされていて、それが全開に拡がっているような奇妙なエネルギーの膨張をはっきりと実感しているこの日の事は今もはっきりと覚えている。
リハーサルを終えコンサートの主催者が用意してくれたホテルの部屋の中でのんびりと過ごす。普通ならコンサート前の待ち時間とは、僅かにでもしなくても良い種類の心配が断続的に湧いて来るのを必死に打ち消し、それらの不安材料と戦う過酷な辛い時間になるのだがこの日は全く違う。たまたま当時私のお気に入りだったTV時代劇『遠山の金さん』なんぞを観ながらくつろいでいたのであるが、緊迫感の無い私の態度に家族がかえって心配になってしまう程だったようだ。今思い出してもこの時は不安もマイナスな心配は微塵も無かったように思う。

いよいよガラ・コンサートの開演の時が来た。数人の出演者の熱演の後、すっかりムンムンとした熱気に包まれた1200人以上を収容する満場の大ホールのステージへ足を踏み出して行く。眩しいライトがだだっ広いステージのほぼ中央に置かれているピアノを黒く美しくくっきりと照らしている。満場の聴衆の視線を感じながらそのピアノの前に座る。かすかなざわめきが一点に溶け込み消えて無くなって行く。私は強烈なオーケストラの調弦を表現する三連音符から始まるリストの難曲を弾き始める。全てが自分のイメージ通りに、いや、それ以上のイメージと即興的なセンスが私を奥深い音のブラックホールの渦の中へ強く吸引してしまうのだ。私が奏でている筈の音の渦がいつしか私の自意識、感覚の元を離れ自由自在に飛び回る。そして、うねるような激しいオーケストラのトゥッティを思わせる情熱的かつ切ないクライマックスに差し掛かった時だ。信じられない事だが(そしてそれをこうして書く事に恥ずかしさを覚える程に)、私は確かにステージの遥か上から演奏するもう1人の自分自身を見下ろしていた!これはイメージの話ではない。つまり演奏中の自分の生身の感覚と同時に、視覚的に頭上から確かにはっきりと目下演奏中の自分を見ていたのである。今でもその時私が見た映像をはっきりと思い出す事が出来る。


これを読んだ方は「そんなバカなことがあるもんか!」と失笑する事であろう。それが自然である。自分でさえも首を傾げてしまう。 科学的に分析すれば、熱気溢れる演奏会場での一種特別な状態での精神的な興奮状態が創り出した幻想、幻覚という事になるのか。また、オカルト的な表現を無理矢理すれば、一種の「幽体離脱状態」を睡眠時とは全く異なる条件で経験した、という風に言えるかも知れない。 しかしながら、私にとってはそれはどちらでも良い事なのだ。非常に興味深いのは、その瞬間の私には「究極の興奮」とそれを超越した「究極の冷静」が確かにどちらも強烈に存在していたという点なのである。それが極端な形で突然図らずとも起こり、自分の感覚で処理出来ずに創り出したファンタジーなのか?そうかも知れない。いや、きっとそうなのだろう。

あの時頭上から見たもう1人の私を、そして左右の腕の激しい移動に伴う着ていた当時の師匠からこの演奏会の為に頂いたタキシードの皺の寄り具合の変化、振動が伝わり揺れる頭髪が今もはっきりと目に浮かぶのだけれど・・・・・。


夕焼け

「ブダペスト郊外の朝焼け」(撮影:干野宜大)

あまりに美しいので、夢中になって撮影しました。ハンガリー住居独特の屋根の形がくっきりと浮き立つ。とても好きな写真です。