第6回 「Herr Beethoven」

私は時折とても不思議な夢を見る。
それも飛びっ切り奇妙で、驚く程の展開性を伴う劇的なストーリー物だ。 時にはその夢によって、しばらくの間呆然と夢と現実の狭間をさ迷いさすらってしまうのだが、一日中その夢に翻弄され支配されてしまう事も度々だ。 今回は、その中でも最も印象的且つ素晴らしい、ある一つの夢について書いてみたい。

あれは私が東京の音楽高校に通う為、府中に有る音大生専用の下宿にて独り暮らしを始めて数ヶ月経ったばかりの頃の事だ。 その夢とは次のようなものだ。
私は夢の中で、今は記憶に懐かしい、約6畳一間の下宿部屋に寝ている。部屋にはグランドピアノが所狭しと置かれ、その直ぐ足元に布団を敷いて、寝返りを打つ度に自分の足がピアノに当たるのに少々苛立ちながらも、うとうととまどろんでいる・・・。と、その時だ、突然台所と部屋を仕切るドアが勢い良く開き、なんと!眩いばかりのオーラを身から発したルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンさんが、傍若無人とも言える勢いでズカズカノシノシと入り込んで来たのだ。

それまでよく目にして来た、彼を描いた肖像画やスケッチにある、恐ろしい形相をしたベートーヴェンさんとは全く異なる、とても朗らかで優しい顔で微笑みながら、しかし強烈なエネルギーを全身に漲らせながら、上半身を起こしながらも動けずにいる布団の中の私の方へ近付いて来る。現実にそんな事が起ころうものなら、確実に絶叫して口から泡を吹いて失神している所だが、夢の中の私は意外に冷静で、むしろ親しみを持って彼を迎えた。 そして彼はおもむろに言うのだ。「実はね、キミぃ。ワタシには10曲目のシンフォニーが有るのだよ。」「え?!本当ですか?!」と私。「そうじゃよ。キミぃ、聴いてみたくはないかね?キミぃ~。」「ぜ、是非!!」するとベートーヴェンさんはピアノの前にどっかと座り、小脇に抱えていた五線紙の束を譜面台の上に広げ、実に無造作にその交響曲第10番を弾き始めたのである。
"素晴らしい!!"の一言だった。輝かしく美しい音色によって紡ぎ出される活き活きとした第1主題は、めくるめくハーモニーの展開と漲るエネルギーによって、自由自在に変奏を繰り返す。

私は心の底から感動し、打ち震えた。「す、すいません、ぼ、ぼ、僕にも弾かせて下さい!」 「あ?チッ(舌打ち)今イイ所なのにぃ・・・・・、キミぃ~、しょうがないなぁ、もう。」と言いながらも彼は結構嬉しそうにピアノを譲ってくれた。目の前に開かれているスコアは非常に読み易く、しかもとても美しい。私は喜びに全身を任せ、交響曲第10番に没頭して行く。「ああ、なんて素晴らしい曲なのであろうか、なんという幸せなのだろうか!!」今初めて聴き、初めて弾く曲だというのに、指が鍵盤に吸い寄せられていくように自然に動き回り、この神々しいシンフォニーを再現して行く。
時折ベートーヴェンさんの少々だみ声の指示が飛ぶ。「そこはね、キミぃ~。もっと厳しさとパッションを持ちながら、そうそう、このハーモニーの持続を意識するのだよ、キミぃ~!」「なるほど!あー、良い感じですねー!こんな感じではどうでしょう?!」「なかなかイイものを持っとるね、キミぃ~。レッスン代は負けてあげてもいいぞよ!」「エ?!レッスン代取るんですか?月末で仕送りが未だなんですけど・・・・・。」などど言いながらも全楽章を弾き終えたのである。

ベートーヴェンさんは満足そうに私を見つめ、そしてうなずいた。その目にはうっすらと涙が滲み出ている。私も又、冷め遣らぬ興奮に彼の顔を見つめ返す。するとだ、彼はこの交響曲第10番について自らの楽曲分析を披露し出した。私は魔法に掛けられたように聞き惚れた。まるで聞いた事が無い個性的な音楽理論、大胆な和声の展開セオリー、彼の思想が、哲学が目の当たりになった至福の時だった。 その感覚が極地に達し恍惚となったその瞬間、私は突然、現実に目を覚ました・・・・・。

さっきまでの幸せな時間が夢であった事を理解するまで暫く掛かった。あまりにもリアルな感覚に現実との境目が感じられず、そうと判断するのが困難であったのだが、先程までの素晴らしい時間が、自分の頭の中で創り上げた空想の世界であった事を否定したいという、切ない程の本能的欲求が強く作用した為であろう。 部屋中を見回し愛すべきHerr Beethovenを、そして彼がさっきまでピアノの譜面台の上に広げていた筈のスコアを探そうと目を皿のようにして必死になったが、当然の事ながらそんなものは有る筈が無い。がっかりしてしばらくの間ボウっとしていたのだが、先程から強く自分の頭の中を支配し続けているあるものの存在に気が付いた。そう、それはあのシンフォニーの輝かしくも美しい冒頭の部分だったのである。私は慌てて飛び起きてピアノの前に座り恐る恐るそのメロディーを弾いてみた。

「覚えている、覚えているぞー!!」興奮状態で一番最初から弾き始めてみた。こんな不思議な事はこれまで無かった。まるで何年も掛けて深く付き合ってきた作品のように、又はそれ以上にこの交響曲第10番が、我が手指から紡ぎ出されて来るのだ。私はあまりの事に恐怖すらも感じて、途中で弾くのを止めてしまった。楽譜に書き留めて置こうかとの一瞬思ったのだが、何故かそうする事が奇妙に躊躇われ、遂にそうしなかった。「そうしてはいけない」という何かの強い力が私を支配していたのだ。

そしてこの夢は信じ難い方向へとなだれ込む。 その日の夜、何気なくTVをつけガチャガチャとチャンネルをひねっていると、あるニュース番組から、とんでもないアナウンスが私の耳に飛び込んで来た。「ベートーヴェンの十番目の交響曲のスケッチが発見された」と!!
暫くの間、激しい鳥肌が私を襲い呆然と立ち尽くしたまま数十秒が過ぎた。 ハっとして慌ててその交響曲のメロディーを思い出そうと試みたのだが、何という事だ!全く思い出せないのである!!どんなに頑張っても、ただの一つのメロディーも、たった一つの和音すらも全く浮かばない。あの交響曲第10番は、忽然と私の記憶から姿を消してしまったのである。


そのニュースを見るまでは、あんなにそのメロディーに浸り、その光り輝く偉大な世界に支配されていたのに!!

この強烈な夢と不思議な偶然について初めて人に話したのは、何故かそれから数年経ってからだった。

今でもあの夢の中でのベートーヴェンさんとの楽しく幸せな時間を懐かしく思い出す。 それにしても、発見されたという、交響曲第10番のスケッチは、その後どうなったのであろうか?


トーク6

ブダペストの王宮の中心地点に高くそびえるマーチャーシュ教会。
その圧倒的な姿はエキゾチックでもあり、不思議な品格を漂わせている。
中で聴くオルガンは又格別であり、私の大のお気に入りの教会でもある。

干野


(撮影:田辺氏)