第5回 「Beethoven、Schubert、Brahms」

面白い事に、それぞれの音楽からの自分へのアプローチの種類と経路は微妙に、時には全くと言って良い位に違います。これは、その人その人によって感性も性格も思考経路も全く違うだろうし、それらを表現する際の方向も異なるだろうから、ここではあくまで私の考える、又感じる事として述べたいのですが、例えばBeethovenからは、その作品の持つ強いエネルギーと共に、彼の一人の人間としての強い思想性、信念と一体化した理想そのものが並々ならぬ説得力を伴い、時には怒りと絶望をも姿を見せながら、時には高らかに勝利を歌いながら私に語り掛けて来ます。Beethovenが、私の最も愛する作曲家たる所以はこの点に有ります。個人的な事件よりもむしろ大きく見通した人類愛、輝かしい彼の理想が圧倒的に存在している。
 一方でSchubertとBrahmsは全く違います。Beethovenに聴こえて来る全世界規模の、人間社会全体の思想や理想やエネルギーとは別の、もっと個人的な、しかも本当に純粋で微妙な心の状態、精神的なうつろい、心を裂くような悲しみ、ささやかな喜び、良き時代と愉しき思い出へのノスタルジアが、一人の人間、一人の芸術家の偽り無き言葉として私に訴えて来ます。この2人の芸術家が、人類の宝と言っても良いであろう、素晴らしい歌曲を多く創造した事も偶然では無いと私は信じています。

Brahmsは良く知られているように、とても内向的で重厚な、そしてとても不器用な人だったと言われています。実際はどうだったのかは今となっては誰にも分かりませんが、残っている手紙や記録、そして何より彼の残した作品を見ればそれが多分事実だった事が判ります。彼の作品はとても悲しい。そしてその悲しさは、彼が元々持って生まれて来た悲しさというよりは、むしろ元々とても活発で希望に溢れた情熱家だった彼の人生の果てに生まれた寂しさ、絶望、虚しさ、そんなような種類の悲しさが、特に彼の晩年の作品に感じられるのです。不器用さは、決して豊富では無いメロディーの使い方にも表れているように私には感じます。しかしながら、そのメロディーと他の声部との絡ませ方、展開性には本当に感動を覚えますし、熟成した真の芸術家の声が聴こえて来ます 。
 最後のピアノ作品である、4つの小品 op.119は、私が感じている彼の特長が最も表れている作品だと思います。クララ・シューマンが「灰色の真珠」と喩えた、暗く悲しい、しかしあまりにも美しい第1曲から始まり、遠く愉しき日々を振り返り、現実の寂しさと侘しさに苦しむ様が聴こえて来る第2曲、そんな自分自身への皮肉とも取れるスケルツォの第3曲、そして若き日の彼の持っていたであろう強い情熱と勝利への執念を高らかに歌い上げる終曲のラプソディー。何て悲しい作曲家なのであろうか・・・・・。 本当に素晴らしい芸術家だと思います。

特にSchubertはとても恐ろしい、全く厄介なとんでもなく素敵な人です。そのあまりに美しく純粋な音楽は、時には全く音楽学的なセオリーや頭脳的な計算を掛け離れた所に突然ワープしてしまう。彼の住んでいたウィーンの冬の空がそうだったように、さっき暖かな日光が差していると思っていたら、何の前触れも無く一瞬の内に恐ろしいほどに暗く灰色の空に覆われしまい、同時に自分の気持ちも理由も無く沈んで行く。しかし、先程までの暖かな空に我を忘れて遊び回っていて仲間から逸れてしまった、枯れ枝にとまり身を裂くような寒さに震えている一羽の小鳥を見ながら彼に感情移入したであろうSchubertのほんのささやかな瞬間的な感情や同情、優しさや自嘲、そんなものが溢れ出る魅力的な旋律と圧倒的に美しい和声のセンスによって、確実に頭を通っていないであろう、究極な感覚のみで描かれているのです。だからこそ、その音楽の方向性には予感が出来ないのです。決して頭で計算してはいけないのです。途端につまらない音楽になってしまう。
これをはっきりと体感したのは、東京文化会館でのリサイタルで最後のソナタD.960変ロ長調 を弾いている時でした。

ピアノを弾いている自分も、乱暴に言ってしまえばこの作品さえもある意味存在していない、そこに在るのはSchubertがその小節、その音を書いた瞬間の彼の感覚、感情のみだったのです。あまりに思い上がった文章、意見に思う人が居るかも知れませんね。でも、Schubertには理屈では無い、演奏する側にも究極の状態になった時のみに共感出来る特別な空間が確かに存在するのです。それはある意味、音楽の裏側、ブラックホールに繋がる究極の空間と言っても良いのでは無いでしょうか。 私は、このそれぞれの偉大な人間達の創造した作品に、これからもずうっと向き合いつつも悩ませられて行くのでしょう。今回のプログラムと全く同じもので、又いつかきっとリサイタルで弾いてみたいと思います。その時に自分が何を思い何を感じるのか、とても楽しみでもあります。


トーク5クリスマス